大人の階段。「昔の人はよその子も叱った」という伝聞について。

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やや年長である、という場面が必然的に増えていく中で、「叱る」あるいは「注意する」ということを昨年(2017年)はよく考えた。

会社組織のような強力な縦の関係性が存在する場では当たり前のことでも、そうした場所を離れて「叱る」あるいは「注意する」ということをしている人を見かけることはあまり無い。フリーランスである自分にとってはなおさらのことである。

トーンの在り方はともかく「それはちょっとよろしくない」ということをアドバイスとしてたしなめる。ということが簡単にできないのは、それによって人間関係が変わってしまうかもしれないという恐れに対しての保身だと思う。

言うべき事であれば、たとえ面倒でもしっかり言うのが大人としての振る舞いなのか、それとも「他人は他人」と涼しく振る舞うのが大人なのか。

「働く」というのは、他者に、そして社会に働きかけるということだ。
間接民主主義は、「民間の代表を議員として選出して、民意を反映した政治を行う仕組み」のことだが、その構造からいうと、仕事を通じて社会に働きかけることは「間接労働」だと言える。そのとき、会社を経由せずに社会に、そして他者に働きかける「直接労働」というのもあるのではないか。

フリーランスの仲間に聞いてみたところ、やはり「言うべきことは言う」という人と、「気にしなくていいんじゃない?」という人に分かれた。

「言うべきことは言う」のは確かに労力がかかるし、伝え方にも頭を使うし、良かれと思っての行動だとしても逆恨みされる危険性もある。

「気にしなくていいんじゃない?」という人は、わざわざリスクを侵す必要は無いし、自分のやるべきことに集中するべき、というわけだ。確かに、自分がやらなくてはいけないことはいつだって山ほどある。

政治の不正や不信に対する正義感からSNSなどで声を挙げる人を見かけることはあっても、知人友人に対して、日常の「それはちょっとよろしくない」を直接注意する人を見かけることはあまり無い。だとすると、政治家を入れ替えても日常は変わらない。

組織内の自浄作用が問題とされることはあるが、組織から離れた広い社会での適切な自浄作用とはどのようにつくられるものだろうか。
それはけして窮屈なものであってはいけないが、品のある社会、品のある年長者の振る舞いや責任とはどんなものだろうかと、やはり考えてしまう。

※ビートたけしが軍団を引き連れてフライデーを襲撃。保毛男事件では人権団体がテレビ局に抗議。藤原ヒロシがホテル「TRUNK」のオープニングインタビューで「皆と和気藹々とするのが苦手/健康な食には興味がない」と本音を連発。いくつかの事に対して「これ、言った方がいいのかな?」と考えていたときに「やりすごす」ということを選ばなかった人たちのことをふと思い出して、書きました。
※画像と本文は関係ありません。

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