言語から考える「移住」と「日本人」

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「人は動かない」が人々のコンセンサスとなった

北海道函館市に生まれて、父親の仕事の都合で渡島半島内を数度引っ越した。子ども心に友人との別れは辛く、はっきりと記憶に残っている。子どもにとっては引っ越し先がたとえ隣町であったとしても、そこは誰一人知らない場所。心細くてしょうがなかった。この引っ越しは移住とは呼ばれなかった。
中学の頃、横浜から転校生が来た。おそらくこれも父親の仕事の都合だったと記憶しているが、やはり移住とは呼ばれることはなかったし、誰もそう思わなかった。
20数年前には「移住」とは、例えば日本から海外などの遠くに移り住むことだった。

言葉は生ものなので、人の行動様態が変化したときに同じく変化する。
つまり、国内の移動にも「移住」という言葉が使われるようになったということは、とりもなおさず、昔に比べて‟人々が移動をしなくなった”ということの裏返しだろう。

交通インフラが整備され、LCCで安く速くどこへでも移動できるようになり、世界も日本国内も格段に狭くなった。狭くなったのに、狭い範囲を移り住むことが「移住」となった。定性的な数字は追っていないが、言葉の変化から考えたとき、それだけ「人は動かない」ということが人々のコンセンサスとなったことになる。雑誌などで取り上げられる‟移住者”の顔ぶれもほぼ固定されてきていると話す知人もいた。

国外への旅行者数が減少傾向であるということも随分以前から言われてきたことであるが、やはり、日本人は動かなくなったのかもしれない。
「どんな情報も手軽に手に入るようになったことで、人は旅に出なくなった」と言われることもある。実際にその場所に行かなくても、行った(知った)気になってしまうということである。情報によって人は行動を変え、その結果として言葉の意味も変容する。

移動を「移住」と言わねばならなくなったことの原因は?

一方、海外に住む外国人の事情はどうだろうか。
住まいを移動することに対するマインドは国によっても違うだろうし、経済状況によっても自由な住居移転のハードルはかなり異なるだろう。この20数年だけでも、各国の辿った歴史はそれぞれに各国民のマインドに影響を与えていると思われるので、時代の変遷とともに国ごとにどのような変化があったのか、考えてみると興味深い。

「情報量の増加が人の移動マインドを低下させた」ということは、(特に先進国において)汎用性のある事実なのだろうか。もしも日本だけが例外ということであれば、日本人が移動を「移住」と言わねばならなくなったことの原因にこそ、解決しなければならない問題が潜んでいるのではないか。

地方創生と国防のために‟地方移住”を推進する国側においても、現在謳われている「移住」が「移住」と呼ばれなくなることの方が(ハードルが低くなるという意味において)都合はいいだろう。パラドックス的であるが、移動が移住と呼ばれている間は、‟移住者を増やす”ことは困難なのである。

秀逸なコピーとしての「移住」

おそらく、現在のように「移住」という言葉が氾濫するようになった始まりは、センセーショナルなキャッチフレーズとして誰かが広告宣伝のために使い始めたことである。「移住」は、「今置かれている状況を抜け出そう」という誘い文句であり、現状をより良く変えたいと願う人間のポジティブな性に訴えかける秀逸なコピーとして機能した。なぜなら、「移住」という言葉には、未開の地へ踏み出す希望や夢のようなものも含まれているから。だが、事実として、誰かにとって離れたいその場所は、誰かにとって移住に値するフロンティアである。
万人にとっての素晴しいフロンティアが存在しないことはかつて‟未開の地”だったアメリカ大陸が証明している。

ところで、「このまちに移住者を増やそう」というスローガンで使われる意味の「移住者」には、昔はどんな言葉が当てられていただろう?とも思う。瞬時に思い浮かばない。

言葉は生きている。
今後、「移住」という言葉が今よりさらに内に向くのか、それとも流れが変わって外に向くことはあるだろうか。人口動態から考えて、国としての大きな方向性(都市から地方へ)は変わることは無いだろうが、マインドは変われるだろうか。言葉を見続けていると、きっとわかる。

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